1月16日(土)、今年初めて宮城県女川町へ行ってきました、シナジー委員の工藤です。
第2回目の記事は「私が感じた女川町の魅力」について書かせていただきます。
どうぞ宜しくお願いいたします。
さて、私が家族・仕事の次に注力しております「宮城県女川町への復興支援活動」ですがたびたび訪れるうちに、女川町の魅力にはまっていきましたので、ご紹介したいと思います。
▼目次
女川町ってどこどこ?
- 町名の読み方
- 所在地と人口、町の特徴
- 半端ない女川駅!
女川町との出会い?
- きっかけ なぜ女川町?
被災地支援活動
- 支援活動の始まり
- 支援団体設立の経緯
- お金も物もない!?
- レポートが必要
- 参加メンバー
まとめ
女川町ってどこどこ?
町名の読み方
女川町と書いて「おながわちょう」と読みます。
女川をアルファベット表記しますと「ONAGAWA」と可愛くなりますね。
所在地と人口、町の特徴
女川町は、宮城県の東側、南三陸の牡鹿半島基部に位置します。
仙台から北東に進みますと、松島、石巻を通って女川にたどり着きます。
(お恥ずかしい話、東日本大震災前は地名も場所も知りませんでした。。。)
現在の女川町の人口は6,800人、3,150世帯と公表されております。
ただ、人口減少率が全国ベスト10に入る女川町。
実際のところ、住民は5000人前後ではないかと言われています。
主産業は水産業。
風光明媚なリアス式海岸は天然の良港を形成し、カキやホタテ・ホヤ・銀鮭などの養殖業がとにかく盛んです。
世界三大漁場の一つである金華山沖漁場が近いことから、魚市場には年間を通じて豊富な魚種が数多く水揚げされています。
半端ない女川駅!
仙台駅から女川駅までは電車、車ともに約2時間の距離です。
昨年の3月にJR女川駅が4年ぶりに普及し、ようやくJR石巻線が全線復旧しました。
この新しい女川駅がほんと凄いんです!
まずは、見た目。
ジャジャ~ン!上の画像が新駅舎です!
建築家の坂茂氏がデザインされ、ウミネコがはばたく様子をイメージして造られ、とても美しい形状をしています。
坂氏は、高台にある仮設住宅も設計されました。
坂氏がどれだけ凄い建築家は、ググってください。
この駅舎の凄さは見た目だけではありませんよ~。
なんと、駅舎の中に女川温泉ゆぽっぽなる、温浴施設があるんです。
ゆぽっぽは震災前より女川駅に併設され、町民に愛されていたようですね。
(私も復旧オープン時に並んではいりましたが、とても気持ちの良い温泉でお薦めです。
こちらの施設内には私の描いた花のタイルも設置されています。)
駅舎2階からは、駅前プロムナードが見え、その先に眼をやると女川の海が広がっています。
このプロムナードは、元旦に日の出が真っ直ぐ見える方向に造られました。
(いつか元旦に女川で日の出を見てみたいなぁ)
ここまで新しく生まれ変わった女川駅ですが、なんと、なんと無人駅です。
こんなに駅舎も立派で、駅からの眺望も素晴らしく、温浴施設(ここは有人です)まで併設された
駅にはJR職員が誰も常駐していません!
女川町との出会い
きっかけ なぜ女川町?
東日本大震災での支援活動をきっかけにご縁ができた女川町ですが、よく聞かれる質問は「何故、女川町なのですか?」。
知人や仕事関係、講演での質疑応答、メディアの取材で度々聞かれます。
実は、面白いエピソードや縁故関係は全くなく、「本当、たまたま女川町」だっただけなのです。
震災直後、大きな市町村にはNPOやボランティア団体を早期に受け入れることができるボランティアセンターが設立されました。
でも小さな女川町では、大きなボランティア団体を受け入れるだけのボランティアセンターがなく、震源地に最も近い沿岸部ながら、支援の手はほとんど入っておりませんでした。
当時ツイッターで知り合った目黒区の方(その方は石巻市鮎川浜へボランティアに行かれていました)より、女川町のボランティアセンター職員の携帯番号を教えていただいたことが、唯一のきっかけです。
被災地支援活動
支援活動の始まり
まず始めに、女川町災害ボランティアセンターの須田めぐみさん(とても綺麗な方です)と連絡を取り、現地ニーズを細かく確認し、マッチングした必要物資を把握しました。
地元サッカークラブの後輩を集め、女川町の現状と把握したニーズを説明したところ、その場で同行を快諾。
サッカーチームの父母や知人にも声をかけ、皆で物資をかき集めました。
足りない物は企業へ協力をお願いし、それでも足りない物は皆で費用を捻出し購入しました。
初回の女川町入りは2011年の5月連休明けの金曜夜に出発。
必要物資と炊き出しの道具や材料を車に積んで、総勢18名でお邪魔しました。
詳しくは支援活動レポートをご覧ください。
支援団体設立の経緯
初めての女川町支援活動から戻ると、すぐにミーティングを行いました。
想像以上に大変な状況である事、すぐに復旧するレベルではない事が身に沁みましたが、1番みんなの心に刺さったのは、帰り際に子供達から「もう帰っちゃうの?」 「また来てくれる?」という言葉です。
きっと1度来る人達はいても、2度来る人達はいなかったんだろうなと、帰路の車中考えさせられました。
そしてこの時に同行した仲間全員が、「また行こう」と強く希望したことで継続支援が決定。
バックボーンやスポンサーがいませんので、何をしている団体かすぐにわかるようにと便宜上団体を立ち上げ、投票で「東北被災地応援団 白金支部」と団体名を付けました。
わかりやすい団体名があるだけで、お役所は以後「災害派遣等従事車両証明書」なる魔法の切符(高速代が無料)をバンバン発行下さるようになりました。
何よりも現地の避難所や仮設住宅、在宅避難地域の皆さんに、どこの誰が来たのかを認知してもらえるようになり、信頼関係を築くきっかけとして改めて団体名の重要性を感じました。
※2年ほど前に現地の方の感情に配慮し、「被災地」という言葉を外した「東北応援団 白金支部」と改名しました。
お金もない、物資もない!?
団体設立をしてみたものの、現状はただの任意団体。
女川町のニーズや支援フェーズを拾ってきても、実行するだけのお金もなければ物資もありません。
初回の女川町訪問こそ、参加者で実費割り勘としましたが、2回目以降は参加いただく方々の負担を極力なくそう、と決意。
その頃「義捐金」や「支援金」による支援をされる方が多かったこともあり、参加メンバーの知人や会社や家族に支援金のお願いをしていただきました。
知り合いの飲食店などにも支援金箱を置かしてもらいました。
必要な物資や道具は、安易に店舗で買う前にまずは企業や店舗に話を聞いていただき、協力を依頼。
(慣れとは怖いもので、知らない企業に物資支援のお願いをすることに抵抗がなくなっていきましたね。)
それでも足りない分は、集まった支援金から捻出したり、私財を投じて賄います。
回を重ねると徐々に参加メンバーも増え、数箇所の仮設住宅や在宅避難地域での支援活動を行えるようになりました。
その分、事前に行う食材のカットや物資・道具類の準備も大掛かりになっていきます。
金曜日の日中に私の地元父母にご協力のもと準備をし、仕事を終えたメンバーが金曜の夜中に見送られながらの出発。。。というスケジュールを繰り返しておりました。
レポートが必要
多くの後方支援者、支援企業、支援金寄付者からの協力をいただくにあたり、お礼を兼ねて、活動レポートを毎回作成して報告することにしました。
現地はどんな状況か?どんな準備をしたか?どのような活動を行ってきたのか? レポートは写真入りで作成し、プリントやPDFで配布・配信。
このレポートは弊会のWEBサイトに全て掲載しております。
参加メンバー
この団体は誰でもいつでもご参加いただけます。会費や会員制ではありません。できる時にできる人ができる事を行っております。
メンバーは東京・神奈川に住むサラリーマン、医者、看護師、公務員、教師、自営業者などなど多岐にわたっています。
現在は圧倒的に女性が多かったりします。中央大学の学生さんにもご協力をいただいております。
今だからできる事がありますので、ご参加お待ちしております!
まとめ
「宮城県女川町をご紹介 ~その1 どこどこ編~」どうでしたでしょうか?
女川町に行ってみたくなりましたか??
おっと、いけない。支援活動の概要ばかりになってしまいました。
まだ女川町の魅力については触れていませんでしたね(汗)
では次回「宮城県女川町をご紹介 ~その2 魅力編~」で、とっておきの魅力をご紹介いたしますので、乞うご期待!
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